いつだったか、同僚につれられて街におりたことがあった。
彼は目立つ風貌と三本のみつあみを特異な服装で適当にごまかして、僕は特徴的なアジア系の顔立ちを目深に被ったフードで隠しながらブリタニアの下町をうろついた。絢爛豪華、御伽噺の中のような帝政貴族制のブリタニアとはいえ、中層未満の光景はどこもさしてかわらない。そこには軽く時代錯誤な貴族の御方々もいなければ、剣を振りかざす騎士たちもいない。出かけたのがもう昼をだいぶ過ぎた時間帯で、だから鬱屈とした太陽があたりを鈍く輝らせていた。


僕にだってあまり馴染みのある場所ではなかったけれど、彼がひどく珍しがって、だからなんとなく案内役に徹した(役割が逆だ)。彼はショーウィンドウのおもちゃ(としか言いようも無いもの)にキラキラと瞳を輝かせたり、陳列してあるサングラスを手にとって格好付けてみたり、「初めて食べる!」とかなんとか言いながらこれでもかというくらいにはしゃいでクレープを食べたり、ともかくくるくると楽しげに動き回った。「ジノ、はしゃぎすぎだよ」と軽くたしなめながらも、僕は彼に視線をむけられない。なんとなく遠くに見える海岸線を目で追う。どうしても記憶がダブって苦しくなった。

まるで、出会った時の貴女みたいに笑うから。


季節はちょうど夏の終わりだった。カラッと渇いた空気と降り注ぐ夕ぐれ時の陽光。時折海側からの心地のよい風が通り抜けていってあたりをゆらした。人通りの多い通りのつきあたり、海岸の岸辺と町並みを隔てる堤防のへりに腰掛けて僕らは座る。目線の先をたくさんの人々が行き来していて、もうすぐ夕食の時間だった。


「こういうところにはよく来るの?」
「ものすっごおおく、たまにね」
「電車とか乗れなかったよね?」
「途中までは車だもん」
「運転手さんも大変だ」
そうか?だか、そうだな、だか言って彼は笑った。


髪を揺らす海風に後ろを振り返ると、夕日に染まった空の紅が重たい灰色の雲を浮かび上がらせている。珍しい。雨雲だ。フードのふちを仰ぎながら前に向き直る。さすがに少し蒸し暑い。ブリタニアの夏は地域差があればこそすれ、渇いた空気と明るい光に満ち溢れているのだけれど。ジノが隣でみつあみを軽く揺らした。


「なあ。庶民の街って皆こんななのか?」
「ジノの言う『庶民』の幅は広すぎる」
「そうなの?・・じゃあ、お前の街は?ニッポンの夏ってこんなだった?」
「だからこんなって・・」
どんな?と聞き返そうとしてやめた。


時々彼はニッポンを知りたがる。一定のラインを超えない範囲を行き来しながら、多分その先の僕自身についても。お前のニッポンもこうだった?とそう聞かれるそのたびに僕は逡巡する。それは占領前のことだろうか。それともエリア11と名前を変えた後のことだろうか。考えてとりあえず僕の知り得た世界を話す。それは日本のことだったり、属領ナンバー11の島国のことだったりする。

だから僕の回答は要領を得ない。得ていないはずだと思う。


対極の異国から眼差すから、彼の地の夏が魔術を帯びるのだろうか。何もかもが遠くに響くブリタニア。渇いた風に、遮られることなく降り注ぐ明るい日の光。対して、思い出す故国の夏は、いつもどこか幻めいて見える。覆う湿気と揺らめく陽炎、くれないの空と立ちのぼる入道雲。通り雨にゆらぐ境界線。


一廻り考えて、わからない、と僕は言った。


「思い出せないのか?」
「・・・・わからない」
「ふうん」

見上げると彼はあいまいに笑った。似合わない笑い方だった。












夕暮れの色の濃くなった空に、先ほどの雨雲が大きく成長して広がっていた。
ああ、降るなこれは、と思った瞬間、ポツリと雨粒が落ちてくる。頬にあたった雫を指でおうと、まもなく雨は降りだした。最初はゆっくりと、そしてすぐにその激しさを増して。薄暗く灰色に染まる街の通りから、人々は足早に軒下へと急いでいく。


僕らはお互い声もかけずに、堤防の端に座り続けた。次第に音を強めていく雨に、僕は心もち頭を垂れる。肩にうける雫とフードに滲みこむ水分を甘んじて受け止める、受け入れる。



ふいにバサリと布のかさる音がして、ジノが僕をひきよせる。ふわりと彼のジャケットが僕を覆って、身体の右半分が彼に押し付けられる。雨粒がジャケットをたたくこもった音がする。襟の隙間から彼をみあげると、水分をすった金色が暗く輝いて、しかし彼は笑って「風邪を引くよ」と僕をみおろした。

雨と、濡れた布地と、ほのかな汗のにおいがした。


僕は目を閉じる。重心を右に傾け、額を少しだけこすりつける。


「ジノ」
「なに、スザク」






―――これがニッポンの夏だよ。重たい水と、雨を含んだ黒い雲と、それから人々の体温の匂い。エリア11と呼ばれる島国の夏。僕の故郷の、今亡き故国の、夏の匂いはこんなふうだったよ。








飲み込んだ言葉を味わいながら、なんでもない、と僕は返す。




彼の地で夕立と呼ばわれるこの雨は多分、後一時間くらいでやむのだろう。





















*080626
戻る